たくさんの名前

新年も気が付けば7日を過ぎ。


お寺も通常モードに戻りつつあります(^^♪



そんな中、久々にこのコーナーで行ってみましょう!






お寺に伝わるたからもの その㉗

『念佛講 位牌札』 明治九年十一月銘




年末の大掃除でアチコチ片付けている最中。



「そぉいえば、名前がたくさん書いてある木札があったケド、どこに置いてあったかな?」



と急に思い出しつつ年が明けました。




そして(自分の中で)意外な場所に仕舞ってあったことにひとり驚き。



整理してみようと子供たちに声をかけました。




するとその数のなんとまぁ多いこと!!!



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調査員(家族)による整理作業









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乱雑に納められた木札
(*個人情報に配慮し、一部加工してあります)







そして、以前(平成20年収納時)に何故か未確認だった墨書を箱の蓋ウラで確認いたしました!!!







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期待通り!明治期の始めだ!!(*理由は後述)








さぁ、張り切って数えていこう!








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一枚づつホコリを掃い、地区名別に分別





延べ3日にわたる調査の結果、




佐倉市内はもちろん、八街や酒々井、四街道といった近隣の地区名と。






檀家の有無に留まらない総計783名もの芳名が確認できたのです。オオーw(*゚o゚*)w










では、なぜ今までこんな大切な什物がノーマークだったのか?!








それはこの箱の形状が、他の経本箱と誤認されていたことと。




収納場所が他の什物と違う押し入れに(新本堂への移転時に)仮置きしたままになっていたこと。





更にはその場所の前に普段移動しない大型の仏具が置かれて現在に至ったということでした。





そして、この木札の製作年代ですが。








これは今後調査される境内の石造物と大きくかかわってくることを確信するものでした!





あわせて調査から外れていた古文書との関連もありそう?!




今後が益々楽しみな当寺の”たからもの”なのでありました(*^▽^*)











今後ともコツコツUPしてまいりますので、
皆さまのあたたかいご支援と拍手ボタンぽちっとをお待ちしております♪


失われた山門の記憶

本堂内で地味―に実施中の寺宝の常設展示




夏に向けて、少しだけリニューアルいたしました♪




展示は大きく3章に分かれているのですが、そのうちの第3章目。



「失われた山門の記憶」と表しております(#^^#)




以前までの第3章は→コチラ♪








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第3章 失われた山門の記憶 展示一覧

・宝金剛寺敷地 位置図

・鐘勧進記

・鐘楼堂勧化版木×2

・寺有財産簿






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当寺山門については以前ブログでも取り上げましたが()、





現存史料からの視点で考えています。





需要があるわけでもないし、極自己満足的な常設展示ではありますが。





展示することで私自身の勉強にはなっています(笑)





ご関心のある方は、お参りの際にご覧になってみてください!!














在りし日の山門(楼門)について考える 最終回

全3回の最終稿です♪

第1回は→コチラ
第2回は→コチラ



宝金剛寺の鐘楼門には仁王様がいないという伝承は・・・。






天明3年の飢饉よりも以前に発願され、



当時を記す版木にも飢饉との関連は見られないこちらの山門。



さらに仁王様が存在しないとはこれいかに?




この件では私なりの仮説があります!




それは、




「もともと仁王様を飾るタイプの山門では無かった説」です!!




確かにお寺の門にはその両脇に仁王像が配されている印象が強いかもしれません。




ただ、山門=仁王様(もしくは二天像などの像)が必要という事ではありません。





しかし、一般にとっては仁王様のイメージが強かったことは想像できます。





そこに併せて飢饉のイメージの強い「天明」という時期に造られたというふわっとした歴史情報があれば。





仁王様がいない+天明期の門≒飢饉で造れなかった




と結びつくのではないでしょうか。





ただ、天明の飢饉と山門の造立が全く関係なかったかと言えばそうではなく。





むしろそこには



「何かを造ろうとしたが(飢饉のような要素で)変更があった」という意味が




含まれているのかもしれません。




それは改めて「鐘楼堂勧募」版木の中にある、




「今度山門鐘楼堂建立を企テ」という部分。




鐘楼堂勧化版木 後
*読みやすいように写真を反転させています*






これを以て、



理想的には山門と鐘楼堂を個別で造る可能性も探って計画したが、



飢饉などの要因で計画修正し、



一体型で仁王像も必要ない設計の鐘楼門を建造していったとみるとどうでしょう。






建設計画中に世情を察した寺側は、実現可能な設計に修正。



さらに



「この建設計画によって神仏の加護を得、不況を脱せる」と喧伝したのかもしれません。





だけど山門に仁王様が入る状態を完成ととらえていた人にとって、




「飢饉の影響で仁王様が入らなかった」となったのではないでしょうか。







そしてもっと想像力を膨らませるに、




「完成の姿にどこか物足りなさを感じた」と付け加えてみます。





これも古老の話しなのですが、



「お寺の門はその形状がとても珍しく、とあるお寺が




『うちでも建てたいので』といって見学に来た」という情報もあります。






ということで。




私は近隣市町村のうち、




「二層式の鐘楼門」を探してみました。





すると、二件のお寺様の山門にたどり着いたのです!!!











まずはおとなり四街道市山梨にある曹洞宗の大隆寺さま!



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そして佐倉市内(臼井台)にある日蓮宗の妙傳寺さまです。


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こちらの2寺院さまは門の両端に塀が備わっていますが、



資料で見るにおそらく宝金剛寺の門には無かったと想定します。



上記写真の門から両端の塀をなくすとどうでしょう!




どこか頭でっかちで何か物足りない印象がうかがえませんか?







そう!





そんな印象から


物足りないのは仁王様がいないから!


じゃあなんでいないのかは天明の飢饉があったから!





というストーリーが形成されたと考えられませんか?










以上の長々とした経緯から。








宝金剛寺の山門は 仁王のいない鐘楼門

立ちあがるその姿から 寺の遺風を感じとり 

重ねる歴史の厚みから 栄光盛衰を偲ばせる





と結論付けてみたのであります(´∀`*)ウフフ








長々と書いた割に構成の甘すぎる今回の連載でしたが、


どなたか異論や感想をいただけましたら嬉しいです♪

在りし日の山門(楼門)について考える 2/3

さぁ♪




宝金剛寺にかつて存在した山門を想像する第2回目です。




前回分(コチラ→)をご覧いただくと、その全体像が



「それほど大型でない二層式の鐘楼門」ということがわかると思います。






そしてその姿を想像する前に。




その門はいつの頃のモノなのか?という部分です。





これについてはとても重要な版木が残っています。




「鐘楼堂勧化」と銘する2枚一組の版木です。




鐘楼堂勧化版木 天明元年(1781)




2枚目に天明元年(1781)と刻まれ、



文中は寺の開基縁起から始まり



(前略)去る午ノ年 鐘鑄成就ヲワンヌ 仍而 今度山門鐘楼堂建立を企テ


一チ座ノ護摩修行シ 念願成就セント
(以下略)と刻まれ、




つまり天明元年に(午年に完成した鐘に続いて)山門鐘楼堂を造ろうと呼びかけた内容です。


鐘楼堂勧化版木 表題部分
版木表題部分







更に文面の「午ノ年 鐘鑄成就ヲワンヌ」ですが。



版木の年号である天明元年(1781)からさかのぼって一番近い「午ノ年」とは。





7年前にあたる安永3年(1774)が干支でいうところの「甲午」





そう!つまり前述の「鐘勧進記」の鐘を指すと比定できるのです!





ここで山門の製作年代もわかり、いよいよ全貌に迫るのですが。






もう少しお待ちください!!




私が当寺の門について以前から古老によってよく耳にしたワードを忘れてはいけません。





それは、「仁王様がいなかった」ということです。





これは複数の方から聞かされた言葉でして、




地元の伝承や民話などをまとめた石田肇(故人)筆「北総の或農村物語」(昭和62年刊)でも。




「宝金剛寺(直弥)山門(今はない)建設についての伝説」(P88)という項目に



(前略)天明三年(1783)には大飢饉があった。従って食糧事情は極度に悪化しただろう。

(中略)宝金剛寺は職人救済の意味を含めて山門を新築したとの伝説がある。

かつての山門は立派な材料を使った豪華なものだった。飢饉のため仁王様は入れなかった由。





との記述がありそれを裏付けます。





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ただ。



いわゆる天明の飢饉とは天明2年秋頃からの長雨によって発生するもので、




版木に刻まれた天明元年では、まだこれにあたりません。




また、少なくとも銘文には




「息災延命 子孫繁栄 富貴自在 如意満足」という大願は書かれますが、




飢饉あるいはそれによる職人の救済という具体的な願意は見当たりません。





さて、ではこういった伝承はどこから連想されてきたのでしょう?








次回(最終回)に続きます♪



在りし日の山門(楼門)について考える 1/3

宝金剛寺には、かつて山門があったそうです。





「そうです」という表現からわかるように、私は知りません。



地元の方の話によると「だいぶ痛んでいて、危ないために戦後に解体した」とのこと。



今回は、この宝金剛寺山門を想像してみます!





山門(さんもん)とは・・・

三門(さんもん) – 仏教寺院の正門。寺院は本来山に建てられ山号を付けて呼んだ名残りで、

平地にあっても山門という(Wikipedia)





ひとことで山門と言ってもその形は唐門・楼門・竜宮門など様々ですが、



当寺の山門は楼門(下層に屋根のない二階建ての門)であったようです。




さらに階上が鐘撞堂になっているいわゆる鐘楼門(しょうろうもん)と予想されます。




これは、地元古老の「門の二階にかけばしごで登った」といったお話や、


当寺所蔵文書による記載によって導き出されるものです。








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宝金剛寺敷地位置図」(近代)の主要部







一部には山門と鐘撞堂は別々に存在したという証言もありますが、



境内の広さや、他の史料など総合的に鑑みて。




やはり一体型の鐘楼門タイプというのが現在の私の判断。








そしてこの門は、近隣にしられる立派な門であったらしく。



曰く「(門の)丸柱が抱え込む様な大きさだった」とか、



「(大きく背が高いため)門の下が涼しくて、農作業の休憩所に使った」といった証言しかり。



あるいは大正2年刊行の印旛郡史では、



当寺の説明として

「(前略)老杉天に冲し 鐘楼高く聳江 客殿の壮麗 庫裏の広壮 千載の松樹自ら昔を語る(後略)」



とあることからも、それを裏付けます。







こう聞けば「さも雄大な山門ではないか!」と、観光寺院などにある超大型の門をイメージしてしまうのですが。




残念ながら(?)、大きいとはあくまで近隣規模であって、そこまで大型ではなさそうです。






なぜなら、門に使用したのサイズがわかるからです。





これは、当寺文書の内「鐘勧進記」によって安永3年(1774)に鐘が造られたことがわかり。




併せて「皓月山舊記留」という明治期の文書にも記述があり、そこにはサイズが記載されます。





②鐘勧進記(安永3年)1 表紙










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文中「貳尺三寸」とあり、鐘の直径が約70㎝と読み取れます。



これはいわゆる梵鐘としては大型とまではいえず。






あるいは八街郷土史研究会編『小出古城執筆私本合冊』内、「宝金剛寺」記録にある

筆者の小出古城(1868-1949)には


山門は間口三間半奥行二間の二層造 萱葺屋根にして古色蒼然として屹立す

(中略)長屋門ありて 山門と相竝ぶ 此 長屋門は恰も富豪農家に在る長屋門の如し

寺の建造物としては少し珍奇を感ず(後略)」
 とあることからも。





二階に吊るす鐘のサイズと境内のサイズ感からイメージできます。







そしていよいよその門の姿なのですが。






ずいぶん長文になってしまいました関係上、



続きはまた次回という事で(笑)




















プロフィール

naoyanootera

Author:naoyanootera
千葉県佐倉市直弥にある「宝金剛寺」というお寺の住職です。
お寺の日常や坊さんとして思った事、他趣味やらをつらつらと。。

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