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ゆうごうの「目指せこころあつまるお寺!」

千葉県佐倉市直弥にある「皓月山 宝金剛寺」住職 京極勇剛の部屋

 在りし日の山門(楼門)について考える 2/3

さぁ♪




宝金剛寺にかつて存在した山門を想像する第2回目です。




前回分(コチラ→)をご覧いただくと、その全体像が



「それほど大型でない二層式の鐘楼門」ということがわかると思います。






そしてその姿を想像する前に。




その門はいつの頃のモノなのか?という部分です。





これについてはとても重要な版木が残っています。




「鐘楼堂勧化」と銘する2枚一組の版木です。




鐘楼堂勧化版木 天明元年(1781)




2枚目に天明元年(1781)と刻まれ、



文中は寺の開基縁起から始まり



(前略)去る午ノ年 鐘鑄成就ヲワンヌ 仍而 今度山門鐘楼堂建立を企テ


一チ座ノ護摩修行シ 念願成就セント
(以下略)と刻まれ、




つまり天明元年に(午年に完成した鐘に続いて)山門鐘楼堂を造ろうと呼びかけた内容です。


鐘楼堂勧化版木 表題部分
版木表題部分







更に文面の「午ノ年 鐘鑄成就ヲワンヌ」ですが。



版木の年号である天明元年(1781)からさかのぼって一番近い「午ノ年」とは。





7年前にあたる安永3年(1774)が干支でいうところの「甲午」





そう!つまり前述の「鐘勧進記」の鐘を指すと比定できるのです!





ここで山門の製作年代もわかり、いよいよ全貌に迫るのですが。






もう少しお待ちください!!




私が当寺の門について以前から古老によってよく耳にしたワードを忘れてはいけません。





それは、「仁王様がいなかった」ということです。





これは複数の方から聞かされた言葉でして、




地元の伝承や民話などをまとめた石田肇(故人)筆「北総の或農村物語」(昭和62年刊)でも。




「宝金剛寺(直弥)山門(今はない)建設についての伝説」(P88)という項目に



(前略)天明三年(1783)には大飢饉があった。従って食糧事情は極度に悪化しただろう。

(中略)宝金剛寺は職人救済の意味を含めて山門を新築したとの伝説がある。

かつての山門は立派な材料を使った豪華なものだった。飢饉のため仁王様は入れなかった由。





との記述がありそれを裏付けます。





IMG_20170307_174006.jpg







ただ。



いわゆる天明の飢饉とは天明2年秋頃からの長雨によって発生するもので、




版木に刻まれた天明元年では、まだこれにあたりません。




また、少なくとも銘文には




「息災延命 子孫繁栄 富貴自在 如意満足」という大願は書かれますが、




飢饉あるいはそれによる職人の救済という具体的な願意は見当たりません。





さて、ではこういった伝承はどこから連想されてきたのでしょう?








次回(最終回)に続きます♪



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