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ゆうごうの「目指せこころあつまるお寺!」

千葉県佐倉市直弥にある「皓月山 宝金剛寺」住職 京極勇剛の部屋

 まっすぐ伝えられるように

佐倉・城下町400年記念協賛事業
『みたい!しりたい!佐倉の歴史♪ in 直弥のお寺』の詳細は → コチラ







お通夜のお勤めでした。

お通夜の場合、その場の雰囲気を大切にしたいので、始める前から流れをカッチリと決めないようにしています。



本日は、会葬の方がそれほど多くなかったので、読経時間をすこーしだけ短くしてそのぶんお話をする事にしました。

お話では、形式ばらないように、それでいて意味をしっかりとれるように意識したつもりです。



そういえば。




私の中ではお通夜は“送る会”

そして葬儀は“宗教儀式”ととらえています。



現代は言葉が独り歩きして、

“自由葬”“お別れ会”“家族葬”などといった表現が親しみやすさを助長しているような気がします。

でも。

この内容をごっちゃにし過ぎると、どこかしらで綻びるような危惧を感じており、

オイラ的には旧来の“通夜・葬儀”が一番理にかなっているという自負があります。




やっぱり、大事だって。






だから、葬式は必要だ。―弔いびとが葬儀業界の真実を語るだから、葬式は必要だ。―弔いびとが葬儀業界の真実を語る
(2010/06)
一柳 〓@6AF4@

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最近頓に感じるのだけれど、なまじっかオリジナリティーをだそうと思う方がおいでになり。

客観的に見ると付け焼刃で進んでしまっている場合が多い様な気がします。
(*本日の通夜を指しているのではありません!)





オイラ達坊さんはそれを否定的に見るだけではいけないのだろう。

だって、

きっとそのような人は、現在の葬送儀礼に漠然とでも不信を感じているのではないだろうか。

気をてらわない形式美を持って“安心”と感ずるはずのものを。

ただの退屈なマンネリ儀式と誤解してしまっているのではないのか。


だとしたら、その責任の大部分を感じなければならないのだと思う。



葬送儀礼が大事な分だけ。

その大事さに、我々宗教家があぐらをかいてはいないか?

重要性を伝える努力を怠っていないか?



もっと見出したい。

大事なことは知っているのに、その輝きを伝えられないもどかしさに向かいあって行きたい!










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