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ゆうごうの「目指せこころあつまるお寺!」

千葉県佐倉市直弥にある「皓月山 宝金剛寺」住職 京極勇剛の部屋

 秘すれば花か(秘仏について②)

続編だぜ~ あっはっは

先月24日のブログの続きです)


前回のブログで

「良く考えてみると、私達衆生を救ってくださるはずのホトケサマが姿を表さないなんてちょっと不思議」と書いたけれど、

例えば“虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法”“七倶胝仏母所説准提陀羅尼経”といった仏典に

「仏像や仏画はしかるべき室内に安置して清められた布で覆うべし」のような表現もあるらしく、

“秘仏”を勧めるような記述が無い事もないらしい。。  ('ε') フーン


また、

日本のそもそもの信仰に照らしてみると、この「見れない」ということは案外受け入れられるものでもあるようだ。







そもそも日本には“ヤオロズのカミ”という考え方がありまして、

ヤオロズとは“八百万”と書き、すごーくたくさんのカミ(レベルの高いパワー)があると受け取られてきました。



たくさんってことは“山”とか“海”とか“滝”とかもカミだし、

“山”とかいっても山は“土”とか“木”とか“岩”とかたくさんのモノで構成されている訳で、

ってぇことは何もそのものではなくとも“その空間”が神でもあるわけで。。

空間って事はつまり全体で、たまたまその場の石や木に依っている(仮託)ととらえる事も出来るし、

そのカミの依る木(御神木)でホトケサマを彫ったとしたら、

これはもう見えるとか見えないとかの問題じゃなく“在る”って感覚なのでしょう。




仏像マニアなオイラしかり。

御本尊様を“カタチ”としてとらえると

「なんで見せてくれないの!」ってなるんでしょうけど。



よくよく思い返すに、

神社へ行って「本殿へ入らせろ!」とか「(カミ)の本体が(正面に)見つからなかった」とか言う人はきっといないし、

オイラが神社とかお寺へ行った時に観察してみると、

本堂(拝殿)の前で手を合わせている人の中で「中見ないと物足りない!」って感じの雰囲気出してる人も

そうそういない気がするのよね。。 (^・ェ・^)(^._.^)(^・ェ・^)(^._.^)ウンウン






結局“秘仏”の経緯としては

「凡夫(私達)ごときがホトケにお目にかかるなんて恐れ多くてございます」的な発想だとしても素敵だし、

「あまりにありがたい霊験(パワー)が強すぎて封印してある」っていう

キン肉マンに登場するビッグ・ザ・武道的状態(失礼っ)も有り難さが益すような気がして嬉しい。




それに縁日や定められた日に行う“御開帳”という行為も

「もったいぶっている」などとうがった感じ方をしないで

「ホトケはいつも観ていてくれるけれど、この日は直接観てくれる」と思うと余計に有り難いし、

「やっと会えた」・「なんて貴重な日なのかしら」ととらえる私達のこころの豊かさでありたいですよね♪♪


houkongoji 083
寳金剛寺開基本尊“能満虚空蔵菩薩”(通常秘仏)









最後にオイラが一番しっくり出来た秘仏というありかたについて

ある方の記事を掲載いたします。(*掲載に問題がある場合は削除申しあげます






“絶対秘仏” (四国新聞社 2011/10/10より)

当山の本尊、薬師如来は「秘仏」である。特定の日に開帳するということすらない、いわゆる「絶対秘仏」である。今までも、そしてこれからも、その容姿を目にすることはできない。如来は開眼して以来、可視化されることなく、姿なき存在として奉(まつ)られ続けてきたのである。

 姿なき存在とは言っても、如来は自身の姿を隠さない。そして、見られることを拒まない。ただ、見る側が、見ることによって、見えなくしているのだ。

 例えば、荘子に「成(せい)と虧(き)」の話がある。琴の名手に昭文(しょうぶん)がいる。彼が弦をつま弾けば、たちまちに妙なる旋律が「成」り、聞くものを魅了する。しかし、そもそも旋律の展開というのは無限にある。

 彼が奏でる旋律は、無限のうちの一つに過ぎない。彼が一つの旋律を「成」すことは、それがいかに妙なるものであっても、「成」されなかった無限の旋律が「虧(うしな)」われていることでもある。無限の旋律を無限のまま「成」り立たしめるには、つま弾くのをやめることだ、というのである。

 昭文が一つの旋律を「成」すように、如来を一つの姿に「成」すことで、無限の如来を「虧」う。無限の如来を無限のまま知るには、見るのをやめることだ。

 さらに「渾沌(こんとん)」の話がある。未分化で秩序のない存在である渾沌。目鼻を持たない渾沌に、七穴(目鼻耳口)を穿(うが)つ(分化し秩序化する)と、渾沌は死んでしまった、という話だ。生き生きとした渾沌の生命は、知覚の檻(おり)に閉じ込められることで、断たれる。見ること知ることが、存在の真相を失うという話である。

 真塗(しんぬ)りの厨子(ずし)に納められた如来の前に趺坐(ふざ)し、一座の行法を修するのが、住職の日課である。秘仏という設(しつら)えに導かれるように、目前の姿なき存在に、思いをめぐらせている。

(高松市・清光寺住職 長谷慈弘)











参考にした本

日本の秘仏 (コロナ・ブックス)日本の秘仏 (コロナ・ブックス)
(2002/06)
コロナブックス編集部

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(2007/12)
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続仏像のひみつ続仏像のひみつ
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山本勉

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*今回の秘仏についてはあくまでオイラの所感や浅はかな知識によるモノです。
 不備・異論・問題点があれば是非ご指摘ください。







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2 Comments

iizumi  

No title

個人的には神と仏が混ざったことが大きいような気がします。
触ると祟られる?と伝承されている像もまれにあり、それは仏というより祟神じゃないかと思うこともあります。
ともあれ、何でも見れるというより、見られないものもあるという方が風情があるような気が。

2011/12/01 (Thu) 22:47 | EDIT | REPLY |   

naoyanootera  

Re: No title

iizumi様。いつもありがとうございます。

> 個人的には神と仏が混ざったことが大きいような気がします。

私も同感です。


> 触ると祟られる?と伝承されている像もまれにあり、それは仏というより祟神じゃないかと思うこともあります。

現在はひたすらに“親しみやすさ”が求められがちですが、私は“畏敬”“畏怖”という感覚も重要であると思うし、
昔の人はおそらく、良い意味でこの『畏』の部分にもっと主眼があったのかもしれませんね



> ともあれ、何でも見れるというより、見られないものもあるという方が風情があるような気が。

風情って良いですね♪

まぁでもぶっちゃけ「見たい」ですけど・・・(笑)

2011/12/02 (Fri) 10:06 | EDIT | REPLY |   

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