お寺と歴史と現在と
≪岩富藩主北条氏勝と寳金剛寺≫文章:外山信司(佐倉市文化財審議委員)
寳金剛寺は、岩富一万石の大名であった北条左衛門大夫氏勝公の菩提寺です。
北条氏と言えば、鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏と、戦国乱世を代表する人物として有名な北条早雲を祖とする小田原の北条氏があります。氏勝公は、小田原北条の一族で、JR大船駅の近くに残る玉縄城(鎌倉市城廻)の城主でした。
天正18(1590)年、全国統一を目指す豊臣秀吉は、北条氏を攻めました。
氏勝公は玉縄城に立て籠もったものの、開城して徳川家康に従いました。関東の城々を攻略するうえで貢献した氏勝公に対し、家康は岩富城(佐倉市岩富町)を与えて大名としたのです。
氏勝公は徳川氏に仕えて活躍しましたが、慶長(けいちょう)16(1611)年3月24日、岩富で没し、領内の当寺に葬られました。享年53歳、法号は「静覚院殿恵公居士」で、当寺の院号「静覚院」も氏勝公の法号にちなんでいます。
こうして当寺は、佐倉市東部の真言宗寺院のなかで中心的な寺院となりました。氏勝公が帰依した十四世覚朝上人は「中興開山」とされています。当寺は、堀田氏の甚大寺、土井氏の松林寺とともに、佐倉市内でも数少ない大名家の菩提寺です。本堂の屋根に輝く三鱗紋は、当寺の歴史を今に伝えているのです。

*この文章は平成20年6月の宝金剛寺落慶式で配布されたパンフの為に寄稿されたもの(一部省略)です。
*筆者の肩書は平成20年6月当時のものです。
いきなりでスンマセン(#^.^#)
本堂で公開中の宝金剛寺常設展
『宝金剛寺を伝えるもの-近世からみるカタチ-』で
なにか文章資料を付けようとして考えていました。
そうしたら「あ!落慶式パンフに絶好の文章あったじゃん!!」と今更思いだす。
こちらが掲載されたパンフは落慶日に参加していただいた方にしか配布されておらず、
広く行き渡っているとは言い難いから、再度取り上げてしかるべきだと思った。
落慶式時(正確には“建設事業中”)の事はあまりのドタバタで、正直なところ記憶がちぐはぐだったり、
なんならところどころ抜け落ちていたりする。。。
あれ以来空気感が変わってしまった寺関係者や知人が多いのは、きっと当時のオイラの至らなさなのだろう。
でも、あれ以来力を貸してくださる寺関係者や知人もいる。それはきっと当人自身の思いなのだろう。
そんなオイラのこざかしい台詞はともかく。
あらためて読み返してみて「こんな素晴らしい文章を載せない理由はないっしょ♪」と。
実は後もう1つ掲載したいものがある。
しかしそのためにはいくつか資料を集めないと。
どこかに仕舞ってあるんだっけ?それともそもそも所有してないんだっけ??
・・・・・。
やはり記憶が抜け落ちている。。。(´Д`|||)
追記:必要な資料は過去に頂いていた事が判明・・・探さなきゃ(-_-;)
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コメント
いいね。
2013/02/21 21:23 by satock URL 編集
Re: タイトルなし
> お、イメチェン。
> いいね。
あざーっす ヽ(・∀・)ノ
2013/02/22 15:13 by naoyanootera URL 編集